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歴史
2020/03/25

和歌山県に鎮座した みかんと菓子の神様とは?

私ども総本家駿河屋は室町時代に始まり、先代から受け継がれてきた歴史と伝統とともに、皆さまに愛され支えられてまいりました。

時代を経ても輝きを失わない定番の味わいも、
新しい時代と共に進化していく革新的な味わいも、

長年にわたって切磋琢磨しながら手を取り合ってきた『人』の想いが込められています。

今回は、お菓子の神様・田道間守命(たぢまもりのみこと)をお祀りした、総本家駿河屋とも関わりのある橘本神社をご紹介します。

みかんと菓子の祖神 田道間守命とは?

田道間守命肖像(橘本神社所蔵)

田道間守命についての記述は、記紀(古事記と日本書紀)に記載されています。

第11代垂仁天皇は、農業の発展と殖産の開発に力を入れており、不老不死の霊果・非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)=現在でいう『橘』を求めていました。
田道間守命は、垂仁天皇の命により、海の彼方にあるとされた不老長寿の国・常世の国(中国)に渡り、非時香菓を探す旅に出たそうです。
十余年の辛苦の末、西暦71年にようやく『橘』の木を手に入れて帰国した田道間守命でしたが、時すでに遅く、垂仁天皇は前年に崩御(天皇が亡くなられる)されていました。

『橘』の木の半分を皇后に献上した田道間守命は、残りの半分を持って垂仁天皇の陵に捧げ、悲しみで泣き叫びながら、その場で命絶えたといわれています。

『橘』はみかんの原種。砂糖などが容易に手に入らなかった時代は『橘』の実を加工して菓子を作っていたと伝えられているため、菓子の起源とも言われています。
この『橘』の木が日本で最初に移植された場所『六本樹の丘』に創立されたのが橘本神社なのです。

みかん発祥の地と呼ばれる『六本樹の丘』(海南市下津町)

 

お菓子の神社 橘本神社

橘本神社の創立時期は不明ですが、保元3(1158)年に白河法皇が熊野行幸の際に泊まり、「橘の本に一夜のかりねして入佐の山の月を見るかな」と歌を詠まれた史実があり、由緒ある古社として日本各地から参拝者が訪れた記録が残っています。
江戸時代には紀州藩主・徳川光貞が社の修繕を行うなど、綺麗な状態を維持していたそうですが、時代の流れとともに参拝者が減少。修繕するものもいなくなり、明治を迎える頃には、祠ひとつと橘の老木だけが残るのみとなってしまいました。

この状態を嘆き、再建に東奔西走したのが里人の前山虎之助氏でした。
前山氏と地元の人々の尽力により、明治40(1907)年11月に『六本樹の丘』から現在の地に社殿を遷座・建立。
昭和36(1961)年には、総本家駿河屋をはじめ、全国の柑橘・果物・菓子業者や地元の浄財を得て神殿を改築しました。
その4年後には、毎年4月3日(平成20年から4月第1日曜日)に菓子祭りが開催されるようになり、令和になった今も地元はもちろん、全国のお菓子に関わる人々からの信仰を集めて続けているのです。

※2020年は、4月5日(日曜)に恒例の菓子祭りが開かれます。祝詞奏上、『浦安の舞』奉納、参拝者や地元の子どもらによる『田道間守の歌』の合唱などが行われる予定です。

神社の境内に祀られた『橘』の木。

菓子祭りでは全国の菓子メーカーが看板商品を奉献。

総本家駿河屋と橘本神社のつながり

寄付者名右上に駿河屋第16代目・岡本善右衛門の名前がある。

総本家駿河屋は、改築時の寄付の他にもう一つ、橘本神社と深く関わる機会がありました。
第二次世界大戦後、菓子の原料などが入手しづらかったため、駿河屋第16代目の岡本善右衛門は、全国の銘店に声をかけ『全国銘産菓子工業協同組合』を発足しました。
その組合が東京でお菓子の大きなイベントをすることになった際、橘本神社をお菓子の神様を祀った神社として改めてPRしたのが駿河屋だったのです。

それがきっかけで親交が深まり、昭和46年、駿河屋が和歌山市小倉に新工場を竣工するにあたり、橘本神社の分社が工場の敷地内に建立されました。

次回の特集では、その小倉工場について詳しく紹介しますのでお楽しみに…。

 

橘菓祖 橘本神社
〒649-0144
和歌山県海南市下津町橘本779番地
073-494-0083

 

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