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与謝野晶子と駿河屋の切っても切れない関係とは?

教科書などでもおなじみ。日本を代表する女流歌人、与謝野晶子。

私ども総本家駿河屋は室町時代に始まり、先代から受け継がれてきた歴史と伝統とともに、皆さまに愛され支えられてまいりました。

時代を経ても輝きを失わない定番の味わいも、
新しい時代と共に進化していく革新的な味わいも、

長年にわたって切磋琢磨しながら手を取り合ってきた「人」の想いが込められています。

今回は、日本を代表する女流歌人、与謝野晶子と駿河屋の意外な関係について焦点を当ててご紹介したいと思います。

与謝野晶子の実家は駿河屋だった!

与謝野晶子(よさのあきこ)といえば、教科書などにも出てくる著名な女流作家。明治から昭和期に活躍した歌人・作家で「みだれ髪」などの代表作を多数残しています。実は、与謝野晶子の生家がのれん分けされた駿河屋だったのをご存知でしょうか。

佐藤春夫の長編小説である『晶子曼荼羅』によると、1811年に晶子の父、鳳宗七が駿河屋からのれん分けをされ、堺駿河屋を出店。与謝野晶子は、ここを生家として二十歳過ぎまで過ごしました。

晶子の生家であった堺駿河屋は、現在、大阪府堺市のさかい利晶の杜にある『与謝野晶子記念館』に当時とほぼ同じ実寸で再現されています。西洋好みの父が建てた家は、当時としては珍しく大きな時計がかけられ、2階が洋風という建物。晶子が西洋の香りのする家で少女時代を過ごしていたことがうかがえます。

『与謝野晶子記念館』に再現されている与謝野晶子の生家、堺駿河屋。

駿河屋での店番が、与謝野晶子の原点だった?

幼いころは、漢学塾で朱子学や儒学を学んだ晶子。琴や三味線も習い、たくさんの教養を身に付けたそうです。その後、堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると、実家である堺駿河屋で店番をしつつ、多くの文学作品を読みふけっていたそうです。

樋口一葉や尾崎紅葉の小説、紫式部の「源氏物語」をこよなく愛していたという与謝野晶子。駿河屋で店番をしていた時間が、彼女の文学的才能の原点だったのかもしれません。なお、記念館に再現された生家では、晶子が文学作品を読みながら店番をしていた帳場も再現されています。記念館に足を運ぶ際にはぜひ、覗いてみてください。

堺駿河屋のあった生家跡にも記念碑が。

与謝野晶子の生家であった堺駿河屋は大道筋から西六間筋間の街区にありました。この場所は、戦災復興事業によって道路が拡張されたことで、現在は道路上となっています。

生家跡近くには記念碑が建てられており、与謝野晶子を慕う人たちが多く訪れます。

 

今回は、与謝野晶子と駿河屋の切っても切れない関係についてご紹介しました。日本を代表する女流作家が、駿河屋の店番をしながら文学のセンスを吸収していたと思うと、与謝野晶子の作品がより身近に感じられてきます。もしかしたら、お店の棚から和菓子をつまみ食いしたこともあったかもしれませんね。